親鸞聖人は善のすすめを排斥されたのか?
大きな誤解を招いた『歎異抄』
善も要らない、悪も怖くない!?
第一章の真意は
『歎異抄』の誤解が、真宗を大きく衰退させたという具体例を、第一章を通して見てみたい。
第一章は、『歎異抄』全18章が収まる、最も大事な章である。その後半には「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」と書かれている。
これを「弥陀の本願に救われるには、念仏以上の善はないのだから、念仏さえ称えていれば、他の善はしなくてもよい。本願で助からぬ悪はないのだから、どんな悪も恐れることはないのだ」と得手に解釈し、善に向かわず、悪を犯しても平気な風潮が、真宗内に蔓延しだした。
まかぬ種は生えぬ。積極的に善に励まなくなった真宗門徒の日常に、善果が来ないのはいうまでもなく、反対に、業苦に責められ、現世利益が売り物の新興宗教に多くの門徒が迷っていった。
善を勧めぬ真宗は、日に日に無気力、退嬰化し、外道から「悪人製造の教え」と揶揄されるに至る。かくて浄土真宗は、坂を転げ落ちるように衰退していったのである。
『歎異抄をひらく』には、そんな聞き誤りを、『末灯鈔』(親鸞聖人の書簡や法語を集めたもの)を引用して正されている。
「煩悩具足の身なればとて、心にまかせて、身にも為まじきことをも許し、口にも言うまじきことをも許し、意にも思うまじきことをも許して、いかにも心の儘にてあるべしと申しおうて候らんこそ、返す返す不便におぼえ候え。酔もさめぬ先になお酒を勧め、毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし。『薬あり、毒を好め』と候らんことは、あるべくも候わずとこそ覚え候」
どうせ煩悩の塊だからと開き直って、思うにまかせて、やってはならぬ振る舞いをし、言ってはならぬことを言い、思ってはならぬことを思っても、これは仕方のないこと、慎む必要はないのだ、と話し合っているようだが、はなはだ情けない限りである。泥酔者に、なお酒を勧め、毒で苦しんでいる者に「薬がある、どんどん毒を飲め」と言う愚者が、どこにあろうか。
聖人ご在世中にも、同じような聞き誤りがあったのだ。真意が理解される困難さと、聖人の悲憤の涙が伝わってくる。
では第一章の正意は何か。『歎異抄をひらく』を熟読含味していただきたい。全ページに、現代の誤解を正す利剣の切れ味が光っている。
『歎異抄をひらく』目次から
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の誤解を正された、親鸞聖人のお言葉
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