往生の一大事を遂げよ ~聖人一流の章~
聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。
その故はもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。
その位を「一念発起・入正定之聚」とも釈し、その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり。(聖人一流章)
報恩講とは、親鸞聖人のご恩に報いる親鸞学徒の集まりである。
親鸞聖人のご恩に報いるには、聖人のみ教えを、まず正確に知らなければならない。
蓮如上人は、ご自身の考えを全く説かれず、常に親鸞聖人のみ教えばかりをそのまま教えられた方であった。
『御文章』80通のどこを拝読しても、「この蓮如は」の主張は見られない。その布教精神は、『御一代記聞書』のエピソードからも知られよう。
親鸞聖人のことを尋ねられて、「私も知らぬ、何事も何事も知らぬことをも、親鸞聖人のなされたとおりにせよ」と仰ったというのである。
納得できないことには従えない、というのは、まだ本当には信じていない人だ。親鸞聖人に全幅の信頼を置いておられた蓮如上人は、まさに親鸞学徒の鑑である。
親鸞聖人も、「恩師・法然上人になら、だまされて地獄に堕ちても後悔しない」と『歎異抄』に仰っている。
「だまさない人だと信じる」のは普通だが、「だまされても後悔しない」信じ方のできる人はまれである。しかし、そのように信じる人も、信じられる人も、ともに尊く幸せな方である。
親鸞聖人と蓮如上人は、まさしくそういう関係であられたのだ。