出世の本懐果たす年に
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」
(白骨の章)
「誰の人も、早く後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏の救いに値ってもらいたい」
蓮如上人のご教示である。仏教の始終である「後生の一大事」が分からねば、仏法は絶対に分からない。「後生」とは、来世であり、万人の行く先である。東日本大震災から10カ月、日本は次に来るであろう東海・東南海・南海地震の対応を迫られている。マグニチュード9の巨大地震と、20メートルの大津波が襲うかもしれぬ。今度こそ人智で想定しうる万全の準備を期したいものだが、たとえ地震や津波から逃れても、絶対に逃れられないのが「死」である。
一休は「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と歌っている。一日生きれば一日、死に近づいている人間は、「後生への旅人」である。年が明けたということは、また一年、大きく死に近づいたのである。
死ねば、どうなるか。「天国に行っている」と言う者がほとんどだが、本当にそんなよい所に生まれられるなら、つらい娑婆世界にいるより、急いで自殺する者こそ賢いことになろう。「慰霊」はナンセンスになるし、葬式、法事も意味がなくなる。それらの儀式は、亡くなった人の苦しみを軽減しようと勤められるものだからである。
後生は天国か、苦界に沈んで慰めを必要としているのか、結局ハッキリしない。こんな大問題はないから、「後生の一大事」といわれる。これこそ全ての不安、苦しみの根元だから、仏法はその解決一つ、教えられる。仏教で「救われた」とは、この後生の一大事が解決できたことをいうのである。
後生の一大事の解決とは、死ねば必ず弥陀の浄土へ往けるとハッキリした「往生一定」になることである。では、どうすればその身になれるのだろうか。
釈迦は、ひとえに阿弥陀仏のお力によるしかないと教示されている。だから仏教の結論として「一向専念無量寿仏」弥陀一仏に向け、阿弥陀仏だけを信じよと釈迦は教え勧められたのである。
釈迦の教法以外、説かれなかった親鸞聖人は、「一向専念無量寿仏」の開顕に90年のご生涯、厳しく教え貫かれている。後世それは、親鸞聖人の浄土真宗を「一向宗」と言わしめるほど完徹していた。
弥陀に救われ、地獄行きが極楽往きに方向転換してこそ、年明けが真にめでたくなる。今年こそ、みなともに出世の本懐を果たす年にしましょう。
めでたくは 永久に輝く 信を獲て