「ただ信心を要とす」の真義
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし」(『歎異抄』第一章)
弥陀の救いには一切の差別はない。
老人も若者も、世間でいう善人も悪人も区別なく、なんの隔てもなく救う弥陀の本願だが、「ただ信心を要とすと知るべし」と、クギをさされている。
このお言葉は、『歎異抄』全体を通じて数ある誤解を正す、限りなく重い聖人の発言といっても決して過言ではない。
ここで肝要と確言される「信心」は、一般に使われているような、金が儲かる、病気が治る、ゴリヤクがあるから信じるという信心とは、全く異なる。
聖人が信心と言われるのは、釈迦が本願成就文で説かれている信心である。
この本願成就文を「一実円満の真教・真宗これなり」と親鸞聖人は言われ、大宇宙唯一の完全無欠の教えであり、真実の宗教だと喝破されている。
聖人九十年の教えは、この本願成就文以外にはない。
畢生の大著『教行信証』は、願成就四十字を六巻に開かれた解説書である。
ゆえに聖人が教えられた「信心」とは、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」と説かれている信心である。
ここで「聞其名号」と言われる「聞」とは、「信心」と同じ意味だと、聖人はこうおっしゃっている。
「『聞其名号』というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。(中略)『きく』というは、信心をあらわす御法なり」 (『一念多念証文』)
また、この「聞」を分かりやすく、こうも詳説される。
「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(『教行信証』)
「聞」イコール「信心」だから、『「信心」とは、阿弥陀仏の本願にツユチリほどの疑いも無くなったことだ』と聖人は明らかにされている。
本願成就文によって「信心」を解説
このように聖人が明解された本願成就文の教説から、『歎異抄をひらく』は、一章の「信心」を
「『仏願に疑心あることなし』の信心」と意訳されている。
なぜこのような意訳になるのか疑問に思っていた読者もあろうが、本願成就文によって「信心」を解説されていることが分かろう。
『歎異抄をひらく』は、『歎異抄』を自分勝手な判断や考えを挿入せず、聖人の『教行信証』によって解釈されていることも納得できよう。
それはそのまま、本願成就文を基準に読解することにほかならない。
今日、当然あるべきそんな解説書は、悲しきかな皆無である。
現今『歎異抄』研究の第一人者と自他ともに認める、武蔵野大学教授の山崎龍明氏も、『歎異抄』一章のこの「信心」を「真実の道理をうなずくこと、といってよいのかもしれません」と解説している始末だ。
『教行信証』『成就文』を土俵にした『歎異抄をひらく』の反論書の出版が待ち遠しい。