私と50周年 15
■ 浄土真宗親鸞会結成50周年
仏法はすべて”私のため”
不平不満はありません
島根県 Sさん
伝え切れなかった 後悔は二度と
「『大命将に終らんとして悔懼交至る』(※)臨終の相を教えた仏説のまことを、まざまざと見せつけられた思いがしたのです」
10人兄弟の父親代わりで、身を粉に働いてきた長兄が、昭和60年、末期ガンで広島県立病院に入院した。付ききりで看病したが、体重は激減、坂を転げ落ちるように容体は悪化していった。
病棟は、夜も2時を回ると、物音一つしない。眠られぬ夜は長く、静寂と暗闇が心を苛む。気丈な長兄も1人でベッドにいるのを恐れるようになった。車椅子に乗せ、毎夜、病棟の長い廊下を、1時間でも2時間でも往復してあげたが、ある日、1点を見つめたまま言った。
「死んだら一体どこへ行くんだ……」
仏法を聞いて間もなかった当時、答える術もなく、「どこへ行くのでしょうね」。そう受け流すしかなかった。
後生の明かりを求め、枕元の『正信偈』を幾度も手にしたが、次第にページをめくる気力も体力もなくなった。
この世は夢幻、仏法こそ真実
「暗いトンネルを、行っても行っても抜けられん」
長兄は後生へ旅立った。
葬儀を終え、柩が火葬炉へ運ばれると、重い鉄の扉が閉まる。その瞬間、苦労ばかりの長兄の人生とは何だったのか、悲しみが込み上げた。
再び扉が開いた時、「夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれというも中々おろかなり」。蓮如上人の「白骨の御文」そのままの光景に愕然とした。
「火の中かき分けてとか、仕事やめて聞け、と厳しいのは、やがて私もこんな姿になるからか……。そう思った時、この世は何もかも夢幻、仏法こそ真実と目が覚めた気がしたのです」
以来、高森先生のご法話に、欠かさず参詣するようになる。
「長兄は永年、門徒総代をしておりました。『正信偈』のお話を聞くたびに、一言でも聞かせてあげたかったと、今も後悔が残るのです」
82年の人生を振り返り、「生きる苦難は皆、この法に遇わせていただくためだったと思えるんです」と語る。
穏やかで楽しい日々が来るはずだった
小学校の教員になったころは戦争のまっただ中。昭和20年8月、敗戦のラジオ放送が流れる。泣き伏す人、立ち尽くす人、周囲は悲壮感に満ちていたが、戦争が終わった安堵と、自由な未来への期待で、一人胸を躍らせていた。
やがて新制中学がスタート。戦前の教科書はすべて廃棄され、指導方針はアメリカの意向で大変わりした。教科書も勉強道具もなく、生徒たちと働きながら、教具を少しずつそろえていく。物はないが、毎日が新鮮で、夢と希望にあふれていた。「教員時代は、寝ても覚めても生徒のことで頭がいっぱいでした」
昭和48年、教職を辞して家庭に入る。それまでできなかった家事に専念しようと、料理や裁縫の本をたくさん買い込んだ。この先に、穏やかで楽しい日々が来ると信じて。
ところが、何カ月もかけ、ようやく縫い上げた着物に袖を通した時、なぜか喜びがなかった。こんなはずはないと思ったが、何を作っても、その思いは変わらなかった。
急に生きることがむなしく感じた。こんな心のまま、後何年生きねばならないのか。周囲に笑顔を見せてはいても、心は暗い森をさまよっていた。
親鸞会との出会い
そんなおり、新聞に「親鸞聖人の講話」と書かれたチラシが舞い込む。親鸞会の講師の法話に参詣し、「一向専念無量寿仏しかありません。仏教の結論はこれです」との断言に、涙が止めどなくあふれていた。
2カ月後、滋賀会館でのご法話に初めて参詣。家に帰るなり、主人に手を突いてお願いした。「今日、高森顕徹先生という方のお話を聞かせていただきました。この先生から親鸞聖人のみ教えを、ずっと聞かせていただきたいのです」
並々ならぬ思いを感じてか、ご主人は快諾し、しばらく後、夫婦ともに親鸞学徒となった。
島根県で長年支部を支えている。高森先生のお話を何よりも大切に、聞法のあとは、メモをもとに聴聞録を書き、それをさらに清書する。「書くたびに、ご説法が甦って感動するんですよ」。23年の聴聞録は膨大な量で、それを仏法を伝えるために生かしている。
「長兄に親鸞聖人の教えを伝え切れなかった後悔が常にあります。だから、体の動く限り、すべて真実に生かし切りたいのです」
※大命将に終らんとして悔懼交至る……命が終わる時、後悔と恐れが、かわるがわる起きることを教えられた『大無量寿経』のお言葉
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