高森顕徹先生と親鸞会の50年
親鸞会結成以前(滋賀県 その4)
Kさん(滋賀)
「お酒もたばこも飲まん若い先生と、約束してきたでー」(昭和22年)
昭和20年に、私は3人めの子を、この家のすぐ前の川で、死なせてしまったのです。上の2人は女の子でしたから、その子は長男でした。
敗戦から3ヵ月後。今よりずっと小さい川だったのですが、雨が降ると、大人でも流されるほどになりました。その日も、前の日から降った雨で、水かさは増していたのです。
大人ものの下駄を履いて、その子は遊んでいたのですが、気がついたら姿が見えない。
「川にはまったんやないか」ということで捜すと、田んぼに水をやるせきの所に下駄があったので、「川や!」と分かったのです。
村の人総出で、捜してくださいました。琵琶湖まで流れていったら、どうにもなりません。雨のせいで川はどろどろ、見ただけでは分からんので、川に入って捜してくださいました。すると、少し下の、ゴミのたまっている杭の所で、捜してくれていた人の足に息子が引っかかったのです。
「川筋にはたくさんのうちがあるのに、私の子供だけ、何でこんなことに……」
と、泣いて泣いて泣きはらしました。周りの人は、私を、
「病院に入れんとあかん」
と言っていたくらいです。
主人は戦争で、沖縄に出征していました。長男を死なせてしまったという思いで、心の休まる時がありませんでした。
それからです、あの子が一体、どこに行ったのか知りたくて、偉い坊さんに聞かせてほしいと思ったのは。当時は、あっちこっちの寺に布教使さんが来て、説教がありました。でも、だれから幾ら聞いても分かりません。
子供が死んでからもう、一年半たったころでした。梅ヶ原(米原町)の寺に聞きに行った時、私は耐えられんで、みんなが帰ったあと、坊さんに尋ねに行ったのです。女がつかつかと、控室の座敷にまで入るなんて、見た人はびっくりしはったやろなあ。
その場に居合わせたある人が、余程哀れに思われたのでしょう、
「私が京都に行って、偉い布教使さんを探してきましょう」
と言われたのです。
年に2、3回、京都へ行っている人でした。そのあとすぐ、京都へ行かれた時、高森先生がちょうど、本願寺の前で辻説法をしておられたそうです。
その人は、京都から帰ってこられるなり、
「お酒もたばこものまん若い先生と、約束してきたでー」
と言われました。
初めてのご縁が自宅
Kさんは自宅での法話で、高森先生と初めてお会いした。昭和22年4月という。高森先生が多賀町(滋賀県)などで、すでに説法されていたことは、知らなかった。
先生の控室は、床の間の裏にある8畳間2つで、お泊まりにもなられました。この家は最初から、だれがいつ来てもいいような造りになっていて、お客さん用のお手洗いもありました。
沖縄から帰ってきていた主人も、初めは、
「こんな田んぼの忙しい時に、だれも参らんわ」
と腹を立てておりました。
最初は2、30人。ところが、先生が説法されると、先生のお座敷に皆さんが伺って、
「次は、私の家へ来てください」
と申し上げるのです。先生は、一人一人と約束しておられました。
でも私は、
「先生は何で、亡くした私の子供のことを言ってくださらんのやろ」
と思っていたのです。
「一念」というは、信心、二心無きが故に「一念」という(『教行信証』)
『一念』とは、無明の闇のなくなった心をいう」
このお言葉を出されて、何しろ信心決定、信心決定、急がにゃならんと、「信心」のことばかり話されるので、申し訳ないことに、ふに落ちん気持ちでおりました。
そのうえ、亡くした子のあとにできた子供が、ご説法中に泣いて、どうしようもない。ほっておくわけにもいかんし、勝手口の近くへ行って、あやしておりました。
すると、お話が終わってから、先生が私のそばへ来られて、
「今日の話は分かりましたか」と、ひざを突き合わせて話してくだされたのです。忘れられません。
「しんから聞いとらん横着な嫁や」
と、お見通しでおられたに違いありません。
次のご縁は、農繁期が過ぎた6月だったという。Kさん宅に高森先生は、毎月のように来られるようになった。
朝・昼・夜と話され、さらに翌日の朝・昼までの説法だった。
「信心決定(阿弥陀仏の本願に救われたこと)」とはどんなことかも知りませんでしたが、1年も2年もたって、ようやく分かってきました。「子供のことではない。わが身の一大事なんだ」と。
それまでは、『御文章』も読んだことがありませんでしたが、読ませていただくようになって、先生のお話も、より分かってきました。
高森先生のお話は、蓮如上人の「御文章」のとおりでした。仏法がどんなに重いものか、深いものか、私にもだんだん知らされてきました。
参詣者もだんだん増えて、8畳間を4つ合わせただけでは足りず、玄関の土間にも庭にも板張りをして、座ってもらったのです。
2、30人から、200人くらいの参詣者へ。
Kさん宅でのご法話は、昭和41年に滋賀会館が建立されるまで、20年近く続いたのである。
深夜のお見送り
高森先生は、ご説法のたびに、葉書を下さいました。初めは2円の葉書でしたが、それが5円になり、7円になりました。
葉書は大切に保管し、今でも時々取り出しては読ませていただいています。
私は息子を亡くしたあと、3人子供ができましたので、お産の準備で、近所の家でご説法をお願いしたこともあります。
ところが、どの家もトイレが一つしかなく、たくさんの人が列を作っているので、先生が私の家までトイレを借りに来られたこともありました。突然のことで、掃除もしておらず、恥ずかしかったー。
高森先生が途中で、病気で帰られたこともありました。
その時は、来られた時から、だいぶんお悪そうで、食事も召し上がられません。一日目は立ってくださいましたが、次の日はとてもムリと言われて、汽車で米原駅から帰られました。
来られる時はよく、「何時に米原へ着きます」と、電話がかかってきました。米原駅から歩けば、30分はかかります。その時は、自転車で駅までお迎えに行きました。自分が乗って、もう一台、片手で転がしながら。先生と自転車で並んで、米原駅からうちまで来ました。
学生服のころは京都から来られましたが、富山から来られた時は、お帰りは夜中でした。夜行で帰られて、富山には朝、着かれるのです。
いつも、米原駅までお見送りをしました。お葉書に、
「深夜の見送り、ありがとう」と書いてくださった。
今から思えば、亡くした子供は、阿弥陀さまの使いでした。おかげで、高森先生とお会いできたんですから。こんな先生、ほかには見たことない。おられんでしょう。
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